じろさんぽVol.4

前回いつ書いたか、最近 物忘れの激しい私としては、思い出すことが困難で“そのようなことは、もういいや”と開き直っての・・ じろさんぽ 4回です。

え~今回は結構有名なところです。
 
 
国宝“彦根城”全国を旅するなかで、ここは行っておきたいなぁと常々思っておりましたが、なかなか機会がなくやっと訪れることができました。写真は外掘りです。
 
 
かなり広大な敷地で 右端に見えるのが天守閣です。
 
 
001_2
はい 天守閣です。素晴らしい。天守閣好きにはたまらない城のひとつです。dash
 
 

002_4建てられたのは 1604年ころから1607年にかけて築かれようです。時代で言いますと、有名な関ヶ原の合戦の4年後からと言うことになります。建てたのは 井伊直継(いい なおつぐ)と言う方です。
 
 
お父さんは井伊直政(なおまさ)、この方は 徳川家康の四天王と呼ばれた側近で、合戦でも井伊の赤備えと言って甲冑を赤漆で塗り固めた具足
 
・・この赤には曰くがあり、一説には 織田信長が武田氏を滅ぼした後 残った甲州の軍団を家康が吸収して井伊家に任せてからこの赤になったと言う説があります
 
・・その具足で駆け回り 恐れられ、関ヶ原の戦いで抜群の功績を上げ、当時 近江12万石と言われたこの地を与えられましたが、戦いの傷がもとで亡くなり、父の遺志を継いで 直継がここに城を築いたと言う訳です。
 
 
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堀を埋めたてたり、建物を鉄筋化したりする史跡が多いなか、当時の姿をしっかり残しております。
 
 
石垣の間を進んで行くと、本丸へ続く渡り橋に出ました。
 
 
う~んわくわくします。bleah
 
 
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下から見た渡り橋の上にやってきました。
 
 
正面に見えているのは天秤櫓と呼ばれるものです。
 
 
押し寄せる敵を撃退するための施設です。
 
 
戦国時代末期の築城ですので やはりその守りは 堅固、これでもかと言うような備えです。
 
 
攻めてきた敵がここで狙い打ちされるだろう・・ここを突破するのは 困難極まりないことは想像に難くないところです。
 
 
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本丸 天守閣へ入る門です。
 
 
うーん雰囲気は抜群です。good
 
 
黒沢明の映画に出てきそうな、時代劇には もってこいのロケーションです。
 
 
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これは西の丸三重櫓、この櫓は、ここから琵琶湖に沿って北へ数十キロのところにあった 戦国の山城 小谷城(おだにじょう)の本丸から移した櫓と言う説があるそうです。
 
 
その小谷城は来年の大河ドラマ“江姫・・ごうひめ”の生まれたお城です。
 
 
小谷城については次回 じっくりお伝えしたいと思います。
 
 

007_2うーん何度見ても ほれぼれします。
 
 
完璧な姿です。
 
 
三重三階、華麗な“破風・はふ”と呼ばれる装飾をほどこした天守閣、芸術的美しさです。
 
 
明治維新の廃城令も 太平洋戦争の戦災も まぬがれ、旧国宝保存法による城郭国宝の第一号に指定されました。
 
 
この城から1キロほどのところにあった、関ヶ原の合戦で破れた 西軍の総大将石田三成の居城だった佐和山城の用材も使用していると言うことです。
 
 
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破風(はふ)と言うのは、屋根側面の三角の部分に施す装飾のこです。
 
 
このように様々な模様や家紋で飾っていたようで、この城は現存する天守閣の中で最も多く用いられいると言うことです。
 
 
いやぁーしかし素晴らしい〓青空に映える天守閣、時間を忘れてしまいます。
 
 
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天守閣 最上階からの眺めです。
 
 
北西の方向に琵琶湖の大海のような湖面が広がっています。天下の名城にふさわしい眺めです。
 
 
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城から東の方を見ています。遠く雪を頂いている山は、伊吹山です。
 
 
山の麓を抜ければ東海地方、ちょうど写真の伊吹山の右下あたりが有名な関ヶ原と言うわけです。
 
 
左へ行けば北陸道・・越前 越中 越後と続く、ここは交通の要衝 当時 政治的 経済的に重要な地点だったわけです。
 
 
ここを与えられた井伊直政が徳川家康からいかに信頼されていたかがうかがわれます
 
 
・・・などと景色を眺めながら ああだこうだと歴史の世界に思いをはせると果てしがありません。
 

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じろさんぽVol.3

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じろさんぽ、3回。
 
さて今回は石川県七尾市。
 
七尾城跡。
 
かねてより訪ねてみたいと思っておりました。能登半島の真ん中あたり大きくえぐれた湾の南に位置する七尾市街から車で約15分、海抜・・250~300メートルくらいでしょうか、山道をずんずんわけいった頂きに城跡はあります。ここは城跡好きの私にはたまらない史跡のひとつです。
 
 
 

 
02
 
訪れたのは1月下旬。城跡の入口付近から麓を見下ろしたところです。
 
ご覧のようにかなりの山の中であります。七尾城は室町時代中ごろ(1334~)に作られた典型的な山城(やまじろ)です。山城とは、大阪城や名古屋城のように、権力を誇示するために、あるいは経済的な繁栄、流通のため平地に作られたものではなく、敵からの侵略を阻止し防護を第一の目的に山や谷など自然の地形を利用して作られたお城です。
 
03 
 

 
ここが城跡の入口です。
 
ご覧の雪。この日、市街地には、ほとんど雪はありませんでした・・・来て見てびっくり!・・・う~む・・この雪、だいぶやばいです。
 
 
 

 
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車を止めて、思わず息をのみました。・・・城跡の中へ続く道・・・30~40cmは積もっています。まぁこんな真冬に訪れる人も少ないでしょうから除雪などしておりません、まあ当然です・・でここら車を降りて歩けばいいわけですが・・やばいのはここからです・・・私の足は裸足にサンダルなわけです・・・やば過ぎます!
 
 
 
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いかに冬でも裸足にサンダルで過ごす私でも、これはかなりビビります。が・・とにかく意を決して雪道を山頂目指して山道をわけいりました。
 
城門があったんじゃないかなぁと思われる少し広い場所を過ぎると一気に山道・・・城跡巡りと言うよりは登山です、裸足にサンダルで・・無謀と言う他はないでしょう。でもここまで来たら引きさがれないと言う気持ちです、是が非でも本丸跡まで行かねばなりますまい!
 
 
 
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しばらく行くと、おっ!出ました!石垣です。
 
やっぱりここはただの雪深い山ではなく、れっきとした城跡です。雪に足を捕られながら、このサンダルでどこまで行けるのか不安にかられながらも、この石垣でテンション上がります。
  
 
 
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上に行くに従って、石垣が増えていきます。
 
斜面にそって幾重にも石が積まれています。今は木が生え放題ですが、400年ほど前はこの石垣の上に立派なお屋敷などがあったのでしょう。そして多くの人が行き交っていたのでしょう。想像を膨らますと時間がたつのを忘れます。
 
 
 
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ありがたいです、この標識。雪の深みにはまらないよう足元に細心の注意を払って進んでいてふと顔上げると、あれっ?どっちいきゃいいんだ?ということが度々。いよいよ本丸に攻めこむぞお~!・・だいぶその気になってます。
 
 
 
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本丸跡へ登る石段の脇にある案内版です。本丸、お城の中心を成すところです。政治を行うところだったり、殿様の住まいだったりします。しかしこの山の中、登ったり降りたり、馬があったとは言えさぞ大変だったのではないでしょうか。昔の人は、今とは比べものにならないくらい足腰が丈夫だったことでしょう。
 
 
 
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訪ねたのが夕方に近かったため冬の陽は、つるべおとし、あっという間に日が暮れます。なんだか暗くてわかりにくいですが、七尾城跡の碑です。険しい石段を登り切ると予想外に拓けた場所に出ました。やっとたどりついた本丸跡ですが、一面の雪・・・ここまでなんとか雪の中を裸足にサンダルでやって来ましたが、そろそろ限界が近づきつつあります。
 
 

 

 
 
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本丸跡の広い敷地にさらに小高く一段上がった場所がありますそこが本丸の中心だったのでしょう、小さな社があります。
 
城と言ってもここは、豪壮な天守閣がそびえていたわけではなく、殿様とその家臣が住み、政治を行う広間を持ったお屋敷があったと考えられます。七尾城、約450年前この能登の地域を治める 畠山と言う殿様の城でした。
 
七尾は富山と並び新潟はじめ東北方面からの海上交通の拠点で、東北方面からの人や物資を船でここまで運び、あとは陸路、福井 敦賀 近江(滋賀)を通って京都へ至るという、経済活動そして軍事上 重要な港でした。
 
 
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山の頂上ですが、かなりり広い敷地どす。
 
今は一面の雪でなかなか当時を想像するのは難しいですが、きっと大きなお屋敷が立っていたのでしょう。現代人の私だから思うのでしょうが、よくこんな山の上でたくさんの人が生活してよなぁとつくずく感心します。う~ん ご苦労様さんて感じです。
 
 
 
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本丸跡からの眺めです。
 
見えているのは七尾湾です。
 
能登島(のとじま)を真ん中におき、北湾 南湾 西湾 に分かれています。今見ているのは南湾です。外海から深く入り込んでいるので波も穏やかで、港を作るには最適の場所だったのでしょう。道路がそれほど整備されていなかった時代、人や物資を運ぶのに船は重要な交通手段だったはずです。
 
 
 
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本丸跡から少し降ったところです。
 
登って来るときは気付かなかったのですが、広い道が大きな岩で急に狭くなっています。岩を削って作った道なのでしょう、ここに大きな城門あるいは櫓(やぐら)があったかもしれません。いずれにしてもここが敵の攻撃を防ぐ要塞であったことを伺わせる景色です。
 
この城は、その当時 難攻不落と言われておりました。このような険しい山を麓から戦いながら攻め登ってくるなんて、それはそれは過酷なことだろうなぁ・・と空想に浸っていると、ちぎれそうにつめたい素足のことは忘れてました。
 
 
 
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一気に山を降り七尾港です。
 
天気は、今ひとつで結構風が強いのですが、波は穏やかです。
 
大きな動力のない時代の船にとってこの環境は、抜群だったのではないかと思われます。このように整備された港ではなかったのでしょうが、安心して船をつけて人や物資を積み降ろししたことでしょう。きっとたくさんの船や人、 物があふれにぎやかだったことでしょう。
 
 
 
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港からお城の方をみたところです。
 
あの山にこの港を守るためのお城、要塞があった・・あの石垣 あの広い頂上の本丸跡 あの岩を削って作った道 物資 人が行き交う港、 今 風が強くて寒くて人がまばらな景色・・・かの時代に思いをはせると不思議な気持ちになります。
 
この難攻不落のお城を陥落させた戦国武将がいます。上杉謙信です。・・ご存知の方も多いかもしれません。昨年の大河ドラマ“天地人”にも登場した、越後の龍 いくさの天才、と言われ武将です。この七尾城を陥落させた後、この地に迫っていた 当時近畿地方と東海地方とを手中に入れ、強大な勢力になっていた織田信長の軍勢を金沢の南 手取川で一撃のもとに破りました。その戦いにこの七尾城は、海路 兵隊や物資を越後(新潟県)から、いくさの前線に送るために重要な役割を果たしたのです。“上杉におうては織田も手取川 はねる謙信 にぐる信長”と言う うたが残っているほど上杉謙信の強さはけた違いだったようです。
 
さて長くなってしまいました。この上杉謙信についてはまたいずれ触れることと致します。あぁっ・・そういえば・・歴史の世界に浸ってて忘れてましたが、ちぎれそうになっていた素足はすっかり平気になっておりました。やはり普段の生活のたまものでしょう。ではみなさま次回まで、ごきげんよう。
 
 
じろべぇどん
 
 

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じろさんぽ Vol.2

みなさまこんにちは。

気がつけば、はや師走。めっきり寒くなりまして、気温が下がったと言っては“あ”・・乾燥してきたと言っては“あ~!”・・ 新型のあいつが悪さをしておりますが、みなさま いかがでしょうか。新型のあの野郎ほんとにシャレになりません。angry
特に幼児や小学生、中学生の間に広がり私ら風の子九州のような劇団の、大切な出会いを奪っております。
このやり場のない怒り、どうしてくれよう・・許さんぞ!dash て感じです。すみません長くなりましたが・・・
 
さて、ほんとご無沙汰でございましたが“じろさんぽ”第二回です。
 
今年の10月~11月は例年になく旅に出ることが少なく(新型のあやつのせいもあり) あちこちをぷらぷらとはいかず・・・そこで今回は思いっきり身近なところをぷらぷらしてみました。
 
 
001
写真は風の子九州の事務所 and 稽古場です。

私“じろべぇどん”は、ここで生まれ育ちました。私の祖父が戦前に、ここ(福岡市の西新町)に土地を買って家を建てました。以来ずっとここで暮らしてきた訳ですが、風の子に建て変わる前は、平屋の昔ながらの日本家屋でした。天井も、床下も高くて庭があって、草や木がたくさん植わっていて私が子どもの頃は、ねずみや イタチ、蛇もいました。便所はボッチャントイレで、ある日 便器の中をのぞくと薄暗い下の方に“手”があって 恐怖のどん底に落とされた私は、しばらくトイレに行けず・・・しかぶりましたcrying(博多弁でお漏らし)。それは、くみ取り屋さんが落としたゴム手袋でした。
 
 
002
風の子九州の事務所の前の道です。

この道は、1976~7年くらいまで舗装されていませんでした。小学校の頃は近所の子と棒きれで道に線を書いて“ひまわりおに”などをしょっちゅうやってました。赤い看板は、最近店をたたまれた“みゆき食堂”博多弁丸出しの通称 みゆきのおばちゃんが、この場所で40年くらい定食屋さんをやっておられました。その以前ここは、洗濯屋さんでした。同い年くらいの女の子の姉妹がいてしょっちゅううちに来て遊んでました。そこのお母さん、すごい美人だったなぁ・・幼い記憶に鮮明に残っています。まみちゃんとくみちゃん、どうしているだろう・・。
その向かい側は、今コインパーキングですが、1965~6年頃までは雑貨屋さんでした。私はまだ小学校に上がる前だったので記憶がおぼろげですが、確か豆とか乾物とかあと駄菓子やアイスクリーム、ジュース、あと日用雑貨などを置いていと思います。おやつのアイスクリームは必ずここで買っていました。その雑貨屋さんをしていた家族が店たたんで引越していった後に、みどりパーマという美容室ができました。近所のおばちゃんたちはみんなここでパーマをあてていたのではないかと思われます。同級生の女の子と、ひとつ上の兄ちゃんがいてよくいっしょに遊びました。子ども劇場にもいっしょに入っていてサークル会いったりキャンプもいきましたし、いっしょに劇をやったりもしました。そのひとつ上の兄ちゃんは風の子の研究所の九期生なのですが、高校出て一年くらいして研究所へいきました。当時 僕はまだ芝居をやっていこうなんてことは全く思っていなくて、東京の劇団の研究所に行くんだよと聞いたときは「うわぁ~すごいなぁ、なんか華やかなとこいくんやなぁ・・・芸能界にいくんやろかぁカッコいいなぁ」と思ってました。児童演劇のことなどさっぱりわかっていませんでした。
 
 

003_2 さて劇団の事務所を出て、年末などの賑わいでニュースにもよく出る、リヤカー部隊でも知られている西新(にしじん)商店街に通じる路地です。

手前の右側にこのあたりではここのケーキは相当美味しいと評判の店、その手前には、いつもお客さんがいっぱいの焼きとり屋さん、その向かいに風の子九州御用達のコーヒー専門店、その向こうには風の子九州御用達のたこ焼き屋さん、商店街へ向かってゆくとボリュームの多さが印象的な洋食屋、パソコンの店に洋服屋 アクセサリーの店にブティック風の店 お好み焼き屋 スパゲティ屋さん、その他ラーメン屋にもつ鍋屋さん、飲み屋さんと、ほんとにたくさんの店がこのせまい道の両側にひしめいています。今から40年くらい前、私が小学校低学年、1967~8年のころはずいぶん様子が違いました。
写真の右側の真ん中あたりにお風呂屋さんがありました。近所には、お風呂のない家は普通でした。私のうちにはありましたが当時は確か石炭で沸かしていました。薪をいれ新聞紙に火をつけ薪に火がついたら石炭をくべていました。そうすると石炭の燃えかすが出まして、その燃えかすを家の前の道にすてて踏み固めていました。近所には石炭の燃えかすを踏み固めた跡を結構見かけることがありました。ちなみにうちは、ほりゴタツだったのですが中はレンタンのアンカでした(カタカナの単語の意味が分からない方は周りの人に尋ねてみてくださいね)。さてお風呂屋さん、ここには ひとつ上のお姉ちゃんと三つくらい下の男の子の姉弟がいて時々開店前のお風呂屋さんに上がって遊んだ記憶があります。みじかな存在だったお風呂屋さんは、しばらくしてなくってしまい、近所ではまったくと言っていいほどお風呂屋さんはなくなり、後年東京に住んだ時、当たり前のように近所にお風呂屋さんがあり、なんだか不思議な感じでした。この通り、その頃あとはカメラ屋さん 床屋さん 靴屋さん 花屋さん 洋裁屋さんそれだけだったかなぁ・・路地のすき間に公衆の便所・・ほぼ肥だめ状態のトイレでした・・トイレの無い家も多かったのかなぁ・・・
 
確かなのは、今よりうんと近所の人たちのことをよぉく知っていました。
 
 

004 え~とこの通りは通称マイカー道路。この通りはわりと早く舗装されました。
 
おそらく小学校上がる頃で、記憶の中に、足でこぎながら三輪自転車で傍の原っぱに遊びに行った記憶があります。今まで一番古い記憶のひとつだと思われます。

数年もしない内に朝晩は大渋滞が起こる道路になりました。都市高速が西に伸びるまでは朝7時から8時の間に仕事で急ぐ時は、誠に悩ましい通りになってしまいました。

今は当たり前のように都市高速を利用し、その便利さを忘れておりますが、朝早く遠方に公演で出かける時は所要時間の短縮でずいぶん楽になりました。
 
 

  

 
005
桜です。十本くらい植わっていますが、春ともなればそれは見事に咲き誇ります。
 
この桜が植わっている、ちょっとした広場、そしてその奥は風の子九州のお芝居を毎年観ていただいていてほんとにお世話なっている保育園です。この広場と保育園の場所は40年前は池でした。田んぼに引く水をためる溜池だったのです。この辺り、今は競うようにマンションが立ち並んでいますが、その頃は少し歩けば広々とした田んぼがありました。この溜池でよく遊びました。カエルやザリガニ、ミジンコやイトミミズなんてのがいっぱいいるそれはそれは魅力的なところでした。そのうち田んぼが減り、池の水は使われなくなり、池水は濁って腐りどぶになりやがて埋立られました。ある日池に行ってみると、池はなくなっていて景色がすっかり変わり・・愛着のある池だったので・・なんというのか・・心にぽっかり穴が空いたような気持ちになりました。
 
 
006
埋立られたところは、何もない広場になりました。

これは広場の中から保育園の方を見ていますが、この保育園がなかったのでかなりの広さがありました。草野球ができるくらいの広さはありました。そう当時、大ヒットしていた少年漫画「巨人の星」にはまった近所の少年たちの格好のグラウンドになったのです。私は小学校 3~4年生でしたが多分に漏れず・・・このグラウンドで、主人公の“星 飛雄馬”の足を高く上げる投球フォームで、投げたボールは あさっての方へいってしまうキャッチボールをしたり、“消える魔球”はこういう仕組みになっているとまじめに解明しあったり、バットを片手で持って外野を差し“星くん・・大リーグボールを・・!”と叫ぶ、予告ホームランごっこ・・・よくやりました。その頃は夏休みともなれば、ひとりでここにきて壁にボールを投げていてら必ず誰か友達がやってきて5人対5人とか少ない時は3人対3人、塁をひとつ減らし三角ベースと言うルールで、守り手が異様に少ない草野球をほぼ毎日やっていました。
ちなみに私は、投げるのはものすごい“ノーコン”(ノーコントロール)でしたが、バッティングと走塁にはかなりの自信を持っていました。baseballbaseballbaseball

当時、DH(指名代打)というシステムがあればもっと活躍したんじゃないかと悔やまれます(^O^)
 
 
007_2
広場と保育園のすぐとなり成人病センター、字のとうりさまざまな成人病を専門に診る病院です。hospital
 
私はまだお世話になったことはありませんが、しかし来年は50になろうかという身には、そろそろ用心したほうが、とたまに思ったりしてますが・・なんてなことはさておき。この成人病センター、もとは西新病院という福岡市立の総合病院でした。僕はここで生まれました。母は、陣痛が始まってもうすぐ生まれるという時になって家を出たそうで、もうちょっと我慢しなさい!もうすぐよっ!と言われ“あいたたたたっ” と言いながら、歩いて2分ほど、溜池の脇の道を通ってこの病院に駆け込んだと言うことでした。病院は注射をするところで嫌いだったけれど、この西新病院はふる~い病院でしたが、すごく愛着がありました。なくなってしまってちょっと寂しいです。ここで生まれてもうすぐ50年・・・半世紀・・今 生きている自分がなんだか不思議です。
 
 
008
グルッと視線を移して、こちら西新商店街。
 
たくさんのお店が並んでいます。大型店舗の進出で、シャッター商店街なんて嫌な言葉が出てきて大きな社会問題になっていますが、この商店街は昔からほんとに賑やかで、今もその活気は色あせることはありません。なんといっても賑わい効果を高めているのは“リヤカー部隊”写真のほんの4~5メーター先から、新鮮な野菜や果物 朝とれたいろんな種類の魚介類 干物に漬物 お惣菜、ありとあらゆるいろんなものをいっぱい積んだリヤカーが ところ狭しと並びます。売っているおじちゃん おばちゃんは市場で仕入れて来ると言うよりも、自分の畑で作ったものや 漁ってきたものを売っている場合が多いそうです。子どもの頃からこの商店街の賑わいとリヤカー部隊の風景は買い物に出かける嬉しさとともに、当たり前のものでした。小学校に上がるか上がらない頃、母の買い物にしょっちゅうついて行き魚屋さんで買った魚を目の前でさばいているのを見るのが楽しみで、その手際の鮮やかさと活気にワクワクさせられました。その賑わいがほんとに魅力的でした。後年 劇団に入り東京に住んだとき、初めてのひとり住まいの不安のなか、住んだ下北沢に商店街があり、この西新商店街に似ていてすぐに好きになりましたし、以降全国各地を一ヶ月、二ヶ月と旅するようになり、旅から戻ると移り住んだその商店街で、ああ東京に帰ってきたと思うようになっていました。
 
 
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劇団事務所から西新商店街に出た位置で西を見た写真です。

ずうっと、ずうっとまっすぐ行くと海岸線を走り佐賀県は唐津まで続く国道につながっています。新しい店、昔からの店入りまじり、いろんな種類 多種多様なお店が並んでいます。お肉の勉強屋 上野仏壇店 喫茶店のダンケ 山口内科 饅頭屋さん 魚屋さん 和菓子屋さん 西新模型(プラモデル屋) こだわりの日本酒 焼酎の酒屋と、私が子どもの頃、それ以前から続いているお店もたくさんあります。こちらの方はリヤカー部隊は出ませんが、やはり活気に陰りは感じられません。リヤカー部隊からの影響もありますが、この商店街と平行して走っている国道を挟んだすぐ向こうに公立の高校と私立の高校、それに私立大学があり 若者がぶらぶらする街でもあります。そうした若者が立ち寄ることも活気に影響を与えています。そして何よりこの商店街の周辺にたくさんの人が住んでいる、大きな駐車場がなくてもたくさんの人が買い物にやってくる・・さらに路線バスと地下鉄の連携での便利さが、人の流れをスムーズにしています。この商店街にはたくさんの同級生がいました。 お米屋さんの関さん宿題を学校に忘れて、よく教えてもらいました。 魚屋の鳥巣くん お店の奥にある自宅にしょっちゅうお邪魔しました。床屋の時枝くん、めっちゃ勉強のできるやつでした。・・・仏壇屋の上野くんは小学校3~4年の時いっしょのクラスでほんとによく遊びました。今は店を継ぎ葬儀屋さんがメインで、祖母や父の葬儀では大変お世話になりました。
この商店街のいっかくに風の子九州があり、自分がそこのひとりとしていることになっているとは・・・と言うより、自分が生まれ育った家が、なんと劇団の事務所兼 稽古場になっているとは・・・私の家族、誰も思っても見なかったのですが・・私の親父にいたっては、“お前は劇団なんかに入って生きていけると思っているのかぁ!自分で食えるもんなら食ってみろぉ!”と猛反対だったんです・・・でも今、こんなことになってます。
 
さあて、“じろさんぽ”次回は、どのあたりを歩くやらさっぱり見当もつきませんが、また忘れた頃に ほいっと登場すると思います。皆様 悪いウイルスなどにやられませんようお気をつけて。それではまた。
 
じろべぇどん

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じろさんぽ

え~みなさまこんにちは。始まりました“じろさんぽ”これから公演で訪れるいろんなところで芝居の合間に、城

好き 歴史好きの わたし “じろべぇどん” があちらこちら気の向くままにぷらぷら散歩してみたいと思っています。
 
 
001
さて写真は岡山県は岡山市街から車で30~40分岡山自動車の総社インターチェンジから3~4分、備中高松城跡です。城跡と言ってもご覧のように緑の美しい公園で、天守閣や石垣はありません。
 
 
002
公園の周辺はこのように蓮池に囲まれ更にその向こうには広々と田んぼが広がっています。しかしここはれっきとした戦国時代の城跡です。
 
 
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今から400年余り前、ここには城がありました。城ではあるけれど天守閣や石垣などはなく、周りの川や湿地などの天然の要害を利用して作られた戦国時代の武将 清水宗治(しみずむねはる)の居城だったところです。
 
 
004
写真は本丸(殿様の舘)があったとされるあたりです。1582年天下統一を目指す織田信長方の武将 羽柴秀吉が中国地方を治めていた大大名 毛利輝元を攻めるため、3万の大軍勢をもってこの地にやってきました。近隣の城は攻め落としものの、毛利方の武将 清水宗治が守るこの城はなかなか落とすことができません。攻めあぐんだ秀吉は、家臣 黒田宮兵衛【福岡藩祖 黒田長政の父】の進言によりこの城を水攻めにして落とす作戦に出ました。この城の周囲 約2.6kmに高さ7m 幅11mの大掛かりな堤防をわずか12日間で築き、ちょうど梅雨どきの雨と城の防護の役割を果たしていた足守川の反乱を利用して、城の周囲を水没させて城を完全に孤立させたのです。当時これは合戦ではなく、現在のお金に換算して数百億円を投じた一大土木工事であったと伝えられます。
 
 
005
公園の中にこのように色が履けかかった絵がありました。高松城内は飢餓に落ちいり、絵のように湖に浮かぶ城を眺めながら秀吉は 落城は時間の問題ともくろんでいました。 その時1582年6月2日未明、京都四条 本能寺において秀吉の大将 信長は明智光秀の謀反にあいあっけない最後を迎えてしまいます。窮地にたった秀吉でしたが、信長の死の報が敵方に伝わる前に城主 清水宗治の命と引き換えに、家臣と領土を安堵すると言う条件で和睦を結び、即座に兵を引き、とって返して世に言う“中国大返し”【この高松城から兵庫県の姫路城まで90kmの長大な行程を秀吉の大軍勢が昼も夜もぶっ通し、驚異的なスピードで駆け抜けた。】で自分の陣地に引き返し、すばやく体制を立て直して、明智光秀を山崎・天王山で破り天下統一への道を開いて行ったのです。
 
 
006
これは自分の命と引き換えに家臣の命を救った城主 清水宗治の首塚です。この地で歴史に残る派手で大掛かりな戦をした秀吉でしたが、家臣と領土を救った城主を忘れててはいけないとの想いがひしひしと伝わってきます。
 
 

007_2 < 浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔(こけ)に 残して >

清水宗治が死に際して残した 辞世の句です。

この句を読んで、宗治は 秀吉が作った湖に舟を漕ぎ出して 敵方が見守るなか切腹したのでした。その後、秀吉と敵対した毛利氏は、豊臣政権の中心にとりたてられたため、この地は侵略を受けることなく江戸時代を迎えることになるのです。

 
 
008
秋の気配が漂う田んぼでは、稲穂がそろそろ頭下げようとしています。400年余り前、この地で壮絶な戦があったなどとは、とても想像できない穏やかな景色です。ただ田んぼと同じように広がる蓮池が、かつてここが湿地であったことをうかがわせていました。                           

さて今回はたまたま通りかかった史跡を時間に余裕があったので、ひとり ぷらぷら歩いてみました。次回は、どこらへんを どんな感じでぷらぷらできるのか皆目見当もつきませんが、それが楽しみでもあります。それではみなさん、新型の“あれ”なぞにはくれぐれもお気をつけて、これにて失礼致します。
 
 
じろべぇどん

 

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