じろさんぽVol.3

じろさんぽ、3回。
さて今回は石川県七尾市。
七尾城跡。
かねてより訪ねてみたいと思っておりました。能登半島の真ん中あたり大きくえぐれた湾の南に位置する七尾市街から車で約15分、海抜・・250~300メートルくらいでしょうか、山道をずんずんわけいった頂きに城跡はあります。ここは城跡好きの私にはたまらない史跡のひとつです。
訪れたのは1月下旬。城跡の入口付近から麓を見下ろしたところです。
ご覧のようにかなりの山の中であります。七尾城は室町時代中ごろ(1334~)に作られた典型的な山城(やまじろ)です。山城とは、大阪城や名古屋城のように、権力を誇示するために、あるいは経済的な繁栄、流通のため平地に作られたものではなく、敵からの侵略を阻止し防護を第一の目的に山や谷など自然の地形を利用して作られたお城です。
ここが城跡の入口です。
ご覧の雪。この日、市街地には、ほとんど雪はありませんでした・・・来て見てびっくり!・・・う~む・・この雪、だいぶやばいです。
車を止めて、思わず息をのみました。・・・城跡の中へ続く道・・・30~40cmは積もっています。まぁこんな真冬に訪れる人も少ないでしょうから除雪などしておりません、まあ当然です・・でここら車を降りて歩けばいいわけですが・・やばいのはここからです・・・私の足は裸足にサンダルなわけです・・・やば過ぎます!

いかに冬でも裸足にサンダルで過ごす私でも、これはかなりビビります。が・・とにかく意を決して雪道を山頂目指して山道をわけいりました。
城門があったんじゃないかなぁと思われる少し広い場所を過ぎると一気に山道・・・城跡巡りと言うよりは登山です、裸足にサンダルで・・無謀と言う他はないでしょう。でもここまで来たら引きさがれないと言う気持ちです、是が非でも本丸跡まで行かねばなりますまい!
しばらく行くと、おっ!出ました!石垣です。
やっぱりここはただの雪深い山ではなく、れっきとした城跡です。雪に足を捕られながら、このサンダルでどこまで行けるのか不安にかられながらも、この石垣でテンション上がります。
上に行くに従って、石垣が増えていきます。
斜面にそって幾重にも石が積まれています。今は木が生え放題ですが、400年ほど前はこの石垣の上に立派なお屋敷などがあったのでしょう。そして多くの人が行き交っていたのでしょう。想像を膨らますと時間がたつのを忘れます。
ありがたいです、この標識。雪の深みにはまらないよう足元に細心の注意を払って進んでいてふと顔上げると、あれっ?どっちいきゃいいんだ?ということが度々。いよいよ本丸に攻めこむぞお~!・・だいぶその気になってます。
本丸跡へ登る石段の脇にある案内版です。本丸、お城の中心を成すところです。政治を行うところだったり、殿様の住まいだったりします。しかしこの山の中、登ったり降りたり、馬があったとは言えさぞ大変だったのではないでしょうか。昔の人は、今とは比べものにならないくらい足腰が丈夫だったことでしょう。
訪ねたのが夕方に近かったため冬の陽は、つるべおとし、あっという間に日が暮れます。なんだか暗くてわかりにくいですが、七尾城跡の碑です。険しい石段を登り切ると予想外に拓けた場所に出ました。やっとたどりついた本丸跡ですが、一面の雪・・・ここまでなんとか雪の中を裸足にサンダルでやって来ましたが、そろそろ限界が近づきつつあります。
本丸跡の広い敷地にさらに小高く一段上がった場所がありますそこが本丸の中心だったのでしょう、小さな社があります。
城と言ってもここは、豪壮な天守閣がそびえていたわけではなく、殿様とその家臣が住み、政治を行う広間を持ったお屋敷があったと考えられます。七尾城、約450年前この能登の地域を治める 畠山と言う殿様の城でした。
七尾は富山と並び新潟はじめ東北方面からの海上交通の拠点で、東北方面からの人や物資を船でここまで運び、あとは陸路、福井 敦賀 近江(滋賀)を通って京都へ至るという、経済活動そして軍事上 重要な港でした。
山の頂上ですが、かなりり広い敷地どす。
今は一面の雪でなかなか当時を想像するのは難しいですが、きっと大きなお屋敷が立っていたのでしょう。現代人の私だから思うのでしょうが、よくこんな山の上でたくさんの人が生活してよなぁとつくずく感心します。う~ん ご苦労様さんて感じです。
本丸跡からの眺めです。
見えているのは七尾湾です。
能登島(のとじま)を真ん中におき、北湾 南湾 西湾 に分かれています。今見ているのは南湾です。外海から深く入り込んでいるので波も穏やかで、港を作るには最適の場所だったのでしょう。道路がそれほど整備されていなかった時代、人や物資を運ぶのに船は重要な交通手段だったはずです。
本丸跡から少し降ったところです。
登って来るときは気付かなかったのですが、広い道が大きな岩で急に狭くなっています。岩を削って作った道なのでしょう、ここに大きな城門あるいは櫓(やぐら)があったかもしれません。いずれにしてもここが敵の攻撃を防ぐ要塞であったことを伺わせる景色です。
この城は、その当時 難攻不落と言われておりました。このような険しい山を麓から戦いながら攻め登ってくるなんて、それはそれは過酷なことだろうなぁ・・と空想に浸っていると、ちぎれそうにつめたい素足のことは忘れてました。
一気に山を降り七尾港です。
天気は、今ひとつで結構風が強いのですが、波は穏やかです。
大きな動力のない時代の船にとってこの環境は、抜群だったのではないかと思われます。このように整備された港ではなかったのでしょうが、安心して船をつけて人や物資を積み降ろししたことでしょう。きっとたくさんの船や人、 物があふれにぎやかだったことでしょう。
港からお城の方をみたところです。
あの山にこの港を守るためのお城、要塞があった・・あの石垣 あの広い頂上の本丸跡 あの岩を削って作った道 物資 人が行き交う港、 今 風が強くて寒くて人がまばらな景色・・・かの時代に思いをはせると不思議な気持ちになります。
この難攻不落のお城を陥落させた戦国武将がいます。上杉謙信です。・・ご存知の方も多いかもしれません。昨年の大河ドラマ“天地人”にも登場した、越後の龍 いくさの天才、と言われ武将です。この七尾城を陥落させた後、この地に迫っていた 当時近畿地方と東海地方とを手中に入れ、強大な勢力になっていた織田信長の軍勢を金沢の南 手取川で一撃のもとに破りました。その戦いにこの七尾城は、海路 兵隊や物資を越後(新潟県)から、いくさの前線に送るために重要な役割を果たしたのです。“上杉におうては織田も手取川 はねる謙信 にぐる信長”と言う うたが残っているほど上杉謙信の強さはけた違いだったようです。
さて長くなってしまいました。この上杉謙信についてはまたいずれ触れることと致します。あぁっ・・そういえば・・歴史の世界に浸ってて忘れてましたが、ちぎれそうになっていた素足はすっかり平気になっておりました。やはり普段の生活のたまものでしょう。ではみなさま次回まで、ごきげんよう。
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コメント
こんにちは。
写真きれいですね、目の保養になりました。
ところで、
謙信は畠山家と争ったのではなく、元城主・畠山義続・義綱親子を追放した、『能登家臣七人衆』の長龍連父子と争ったと思うのですが、金沢では、どんな風に伝えられていますか?
謙信ファンなので心配です。
『手取川』の後すぐ、謙信が急死してしまったので、反畠山家だった長龍連氏側の都合の良い話で伝えられているのでしょうか?
過去に謙信の父・為景は、畠山義続の七尾城奪還を援護して失敗してから後、謙信は畠山義続の次男(義綱の弟)を引き取り養子にして、上杉家の名門・上条家を継がせて上条政繁と名を成しています。
その後の七尾城・無血開城の時も、畠山義隆(畠山義続の孫かひ孫)の遺児を保護して、後に叔父(又は大叔父)の上記の上条政繁が養子にして、上杉家の元で養育しています。
後に畠山義春と姓を元に戻して畠山の名跡を守っています。
※上条政繁は徳川家康の元で、畠山義春と共に旗本となりました。
日記も残っています。
その子供は上杉家の元で、徳川幕府に認められ畠山姓を名乗り高家になったそうです。
能登守護・畠山義続・義綱父子は家臣に追放されてからは、親戚の近江・六角家に亡命しています。
ご存知の事だったら済みませんm(__)m
投稿: 畠山家 | 2010年6月14日 (月) 14時40分